神功皇后Project

■ パート2 プランからプロジェクトへ

 小川氏との出逢いからおよそ1年半……、墨江町囃子連は1999年のお祭りの時期を迎えていました。次第に充実度を深めていく囃子連にあっては、世紀の区切りとなる2000年という年のお祭りにおいて、何かしら記念になるようなことをやってみたいという思いが徐々に募ってきます。そしてその思いが、住江町の山車人形であり、住江町のお祭りのシンボルともいえる「神功皇后」のお顔を面にして、それをお祭りで演じてみたいという具体的なプランとなっていったのは、ある意味、とても自然なことであったのかもしれません。

 1999年の春、「神功皇后の面を作って、お祭りで舞わせてみるというのはどうだろう?」という最初の会話が、墨江町囃子連の幹部数人の間で交わされます。しかし、その時点では、神功皇后のお面だけを作るという小さなプランに過ぎませんでした。

 そのほんのしばらく後のお祭りの時期に、囃子連幹部の全員が顔を揃える席で、改めてその話がもう一度出ます。すでに「神功皇后の面を作ろう」という話だけは水面下ではまとまっていたものの、その席で、さらに大きく話は進んでいくのです。「どうせやるならば、もっときっちりとしたプロジェクトとして考えよう」「面だけでなく、衣装や鬘(かつら)、さらにはお囃子自体も、新規にオリジナルのものを製作していこう」と。それも、お面や衣装の製作は単年度決済でやるにしても、お囃子や舞の所作についてはその完成に期限を定めず、5年でも10年でもかけて、囃子連のみんなが納得のいくクオリティにまでじっくりと仕上げていこう…という壮大なプロジェクトになっていくのです。この話の進み方のスピードは、結束力の強い現在の囃子連ならではのことといえるでしょう。

 今から思えば、そのときその場にいた幹部たちには、「現在囃子連を動かしているメンバーであればきっとできる。また、この時期を逃したら、もしかしたらずっとできないかもしれない」という実感がありました。それは幹部全員がみていた夢であったのかもしれませんが、しかし、少なくとも幹部たちの間では、実現不可能な夢ではないように思われたのです。

 こうして、神功皇后プロジェクトの基盤は、一気にできあがってしまったのです。

 1999年のお祭りを終えてすぐに、囃子連の幹部は、神功皇后プロジェクトについてさらに深く考え始めます。もちろん、このプロジェクトは、幹部たちだけの力でできることではありません。若手メンバーの賛同も得なくてはなりません。また、予算面でもそれなりに大きなプロジェクトになることも予測できました。囃子連の独自プロジェクトにするべきか、町内に協力してもらう形にするべきかなど、主に予算面の問題についても検討を重ねていきます。

 もう一つの大事な問題は、コンセプトプランニングのための、いわゆる「勉強」です。正直なところ、それまでの囃子連は、お祭りの日にただお囃子をやって楽しむだけの囃子連というところも、たぶんにありました。つまり、たとえば、神功皇后という人形が人形場に飾られていることは知ってはいるものの、それをまじまじと眺めてみたことなどはない囃子連だったのです。しかし、このプロジェクトを確実に成功させるためには、神功皇后についての歴史的な研究、住吉神社や延命寺、そして青梅のお祭りについての考察、加えて、その他の各種芸能などについての勉強などがどうしても必要になると思われました。

 そうしたことを踏まえ、囃子連幹部は非公式の会合を何度となく行い、各種の資料を作成し、大まかな予算見積もりなども検討した上で、梅雨も終わろうという7月のはじめに「この神功皇后プロジェクトを囃子連全体としてやってみるかどうか」ということを若手メンバーと協議します。さすがに、現在の墨江町囃子連を支える若手メンバーたちです。会議に出席した全員がその場でこの企画に賛同し、新たな目標に向かって邁進するという頼もしい言葉を返してくれたものでした。

 さらにそのしばらく後の7月の終わりになって、町内との会議がもたれました。町内に対しては、すでに四月の時点で、「神功皇后の面を作ってみたい」というだけで詳細を持たないラフプラン段階での打診が行われ、基本的な賛同は得ていたものの、7月になって改めて開かれた説明会において、町内からの御寄付なども含め、プランからプロジェクトへと成長していた案件全体に対する正式なご賛同をいただくに至ります。

 ここに、『神功皇后プロジェクト』が正式にスタートしたのでした。
 

前のページへ 次のページへ

戻る ホーム

Copyright(c) 1998-2006 Sumie-cho Hayashiren. All rights reserved.