囃子連の歴史

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昭和21年頃、スミレ写真館にて撮影
左より、故・橋本利行氏、並木清氏、故・織部義広氏、故・斉藤実氏、田中弘二氏、故・中尾寿男氏、故・本橋武蔵氏


墨江町囃子連誕生 よもやま話

 終戦後間もない、昭和20年秋のことでした。

 その頃、本町と住江町が合同で行っていた「青年団」の活動は、主に「体育部」と「文化部」の2つに分かれていました。体育部では、運動会や野球大会といった華やかなイベントの運営をとりまとめていたのに対し、文化部は、その性質上、地味な活動が多かったのです。しかし、文化部に集っていたメンバーの青年団としての活動に対する情熱は、決して運動部に劣るものではありませんでした。住江町内から参加していた青年団一同の情熱は、当時お祭りの際には、千ヶ瀬町「ち組」の方々に御願いしていた「墨江町の山車でのお囃子」を、『是非自分たちの手で!』という熱い想いとなり、にわかに「墨江町囃子連創設」の気運が高まってきたそうです。

 そして、その年も終わりに近づいた12月、練習場所として津雲代議士の事務所をお借り出来ることとなり、「ち組」の新井籠屋(新井鉄鋼のお爺さん)を師匠としてお迎えし、6人の若者がお囃子の練習を始めることとなりました。

 その6人とは、現顧問の田中弘二氏と並木清氏、そして、今は亡き織部義広氏と橋本利行氏と中尾寿男氏と本橋武蔵氏です。

 練習は、年が明けた翌昭和21年になっても毎日のように続けられていましたが、そんなある日、師匠の新井氏よりこんなお話があったそうです。

 「墨江町の若い衆が一生懸命にお囃子を練習しているという話を聞いた『ち組』の若い者が一緒に練習したいと言っているのだが、これからは新井鉄鋼の工場の一部を使って一緒に練習をしてみないか?」

 それを機会に、練習の場所は、新井鉄鋼さんの工場へと移されたそうです。工場という場所柄、暖房もない板の間での練習で、またその練習内容も厳しいものであったのだそうですが、それでも、若い6人は毎日工場へ通い、練習を積み重ねたそうです。

 また、囃子連創設に意欲を燃やすこの方々の情熱は、その決められた時間だけの練習にはとどまらず、毎日「ち組」の練習が終わった後も、故橋本氏のご両親の暖かいご協力のもと、毎日故橋本氏のお宅に集っては、ちゃぶ台を太鼓がわりに、世の更けるのも忘れるほどにお囃子にのめり込んでいったそうです。

 熱心に練習を続けた6人の若者は、その甲斐あって、桜の花の咲く頃には、お囃子のすべての曲目について、「笛」「つけ」「おおかん」「鉦すり」のどの楽器もすべて一通り出来るようになっていました。そればかりでなく、「ち組」で習ったお囃子を墨江町独自のお囃子にアレンジし、逆に「ち組」の方々がそのアイディアをご参考にされるほどまでになっていたそうです。

 しかし、いよいよお祭りの晴れ舞台も迫り、練習の成果を精一杯披露しよう心躍らせていた囃子連の若者たちは、思ってもみなかったショッキングな事態に直面することになります。それは、「この年の大祭を行わない」という話が出てきたことでした。

 戦後の混乱期という時代背景の中で、町内では、一方に「お祭りを盛大にやって元気を取り戻そう」という考えも当然ありましたが、その一方で、「まだご家族が復員されていないようなご家庭のことなどを考えると、大祭どころではない」という意見も多く出されていたのです。

 結局、この年の大祭を行うか行わないかという問題は、町内の「常会」で決議されることとなりました。そして、この若い囃子連にとって運命の常会は、鯉沼氏のお宅の大広間をお借りして開かれたそうですが、その結果は、囃子連創設の意気込みに燃える若者たちの想いが天に通じたのでしょうか、多数決の結果、僅差で「行う」ことになりました。

 この頃には、現顧問の田中康弘氏、青木善次氏、小村正雄氏らも、一緒にお囃子を練習する仲間に加わっていたのですが、その時のすべてのメンバーにとって、この「大祭決定」の喜びは決して忘れられない思い出の一つとなっています。

 こうして、昭和21年の住吉神社例大祭において、「墨江町囃子連」は記念すべき第一歩を記したのです。

 しかしながら、墨江町囃子連の活動は、まだ本当には花開いていませんでした。というのも実際のお祭りでは、やはり人数の問題などもあり、墨江町囃子連の人間だけではまだお祭りでのすべてのお囃子を担い切ることは出来ず、主な活動は師匠筋である「ち組」の方々に御願いせざるを得なかったためです。

 この時、墨江町囃子連のメンバーは誰もが、「来年は、自分たちだけで山車に乗りたい」と心に刻み込んでいたそうです。

 若い囃子連の練習は、大祭が終わってからも休むことなく続けられ、より一層の技術の向上が図られました。そして、そうした囃子連の活動には、町内からも温かいご支援が寄せられるようになりました。例えば、住江町において、戦後のお祭りの初代拍子木である木村茶目丸氏からは、大いなるご理解とご協力をいただき、練習の場としてお宅をご提供していただいたばかりでなく、丸一の縄締めのつけとおおかんまで使わせていただき、畳がすり切れるほどにまで練習をさせていただいたそうです。

 またこの時期囃子連は、練習を続ける一方で、お囃子の道具についても考えを巡らせていました。ほぼ同時期に創設された「本町囃子連」からもたらされた「町内の有力者からの寄付により太鼓を購入した」というニュースも、若い墨江町囃子連には大いに刺激となりました。

 そこで、囃子連のリーダー的存在で、町内とのパイプ役でもあった中尾氏は、町内の有志への呼びかけを始めます。その呼びかけに快く応えて下さった方々(畳屋のお爺さん、道味のお爺さん、田中大工のお爺さん、坂原木工のお爺さん)が中心となって町内の寄付を募っていただき、ついには、太鼓が購入できることとなりました。まだ、ものも余りない時代に、囃子連のためにご寄付下さった町内の方々に、囃子連一同は涙を流して感謝したそうです。

 そして中尾氏は、当時戦火を避けて高崎に疎開していた「南部屋(現浅草)」まで八高線に乗って赴き、待望の「おおかん」を購入。それを担いで帰ってきた時に出迎えてくれた仲間たちのまるで子供のような笑顔は、今も目の奥に焼き付いて離れないと語って下さいました。

 こうして、昭和22年の大祭で、墨江町囃子連は名実ともに本格的な活動を開始して、以来50余年。その心意気は現在へと、綿々と受け継がれてきています。

(※この文章は、平成8年、墨江町囃子連50周年記念小冊子を作成するために取材した内容をもとに構成されています)

 

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